12〜13世紀ごろと比定される『茨柄天神縁起絵巻』・『松崎天神縁起絵巻』をはじめとして、 『歓喜天霊験絵巻』(13世紀頃、兵庫県武儀治太氏蔵)、『東北院職人尽歌合絵巻』 (14世紀初め頃)、『喜多院蔵人尽絵』(14世紀末頃)、大倉集古館蔵『職人尽絵』 (15世紀頃)および『大山寺縁起図』(15世紀頃)等には、いずれも箱鞴が描かれている。 これらのうち、『東北院職人尽歌合絵巻』と『喜多院職人尽絵』の箱鞴は、今日も用いられているものと同様に、 炉側に張り出した風分庫(かぜぶんこ=風配り、風だまりともいう。廻風路のこと)らしい構造が描かれている。 後述するように風分庫のあるものは、ないものよりはるかに効率的な機能をもっているから、箱鞴は風分庫のないものから、 風分庫のついたものへと発達を遂げたと考えられる。とすれば、15世妃の二つの絵に風分庫のつかない箱鞴が描かれているのはどう考えたらよいか、 大倉集古館『職人尽絵』の、妻らしい女性に先手をさせている鍛冶師図は、吉川金次氏の推定するように「道具を持って各地を転々として歩いて仕事をした」 農鍛冶夫婦を描いたものとして(吉川金次『鋸』法政大学出版局「ものと人間の文化史」)、 『大山寺縁起図』が都から離れた地域性を示すものとすれば、なお発達した風分庫付き箱鞴をもちえない職人層や地域がありえたことを物 語っているとも考えられる。 |
講座・日本技術の社会史 第5巻 採鉱と冶金 日本評論社 1985年 p274-276 今井 泰男
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