また近年平城京址から「鍛冶」の木簡とともに羽口が多数出土したことから、 宮内省の「鍛冶司」等で鞴が使用されたことが証明された。 これら製鉄・鍛冶、あるいは鋳造に用いられた鞴がどのような形のものか知ることはできないが、文献史料によるかぎり吹皮と考えられる。 9世紀末ごろの『新撰字鏡』では、ふいご(鞴と同字=下図参照)を「火を吹く皮」とし、 10世紀初めの『延喜式』では木工寮の年料として「鍬五十口」のほか「鍛冶吹皮料の牛皮十五張」を挙げている。 また10世紀30年代の『倭名類聚抄』では鞴の訓を「布岐如波(ふきかわ)」としている。 葉賀七三男氏の『尾鉱録』に引く法華寺の金堂造営に関する文書では、「吹皮二張の直」と「吹皮二張の作工四人の功」を、 興福寺の西金堂造営に関する文書では、「吹皮等縫料」と「吹皮等練料」を記している。 |
講座・日本技術の社会史 第5巻 採鉱と冶金 日本評論社 1985年 p274-276 今井 泰男
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