続 多々羅大橋  (11 月号)

 9月号に多々羅大橋の記事を書き、その由来に興味を持ちました。 本州四国連絡橋公団にメールを送ると、広報課より電話がかかり、 以下のことを教えていただきました。
『橋の名称は、基本的には直下の海峡の名称を使用することとしています。 したがって、多々羅大橋の名称も直下の多々羅海峡から命名しております。 詳しいことは上浦町役場へ連絡してみてください。』との事でした。
 『確かそんな資料があったよ。調べて後日郵送します。』上浦町、 産業観光課の高原様から送られて来た資料は昭和40年、地元の郷土史家ペンネーム 『尊那骨茶』氏のたたら地名考と言うレポートでした。骨子は次のようなものでした。

1.大三島を中心とする瀬戸内海は第四氷河期の時、砂漠であった。
  そのため花崗岩がぼろぼろと崩れやすい傾向を持っている。
2.たたら浜と言う地名があり、チタンを含む砂鉄を産していたようである。
3.昭和40年ごろではあるが、『たたら地名考』の著者がたたら浜で、
  カナクソ(鉄滓)、鉄くずを採取した。と書かれていました。
(現在たたら浜と言う地名はなく、多々羅岬の海岸だったと思われる。)

 私の推測、古代の小規模な製鉄は砂鉄や鉄鉱石の産するところでは、 少量であるが比較的簡単に製鉄されていたものです。大三島には、伊予一宮の 大山祇神社がありますが、国宝の刀剣が全国で最も多く奉納されています。 源平の時代にも、村上水軍の活躍した時代にも刀剣が奉納されたり、戦勝祈願が 行われています。早くから、製鉄技術を持った渡来人?が住んだ地域で、製塩業も盛んでした。 隣の伯方島では現在も製塩が盛んです。
 一宮として祭られている神社には、製鉄の話が多くあり興味の沸くところです。
大山祇神社は伊予一宮、播磨一宮は伊和神社、備前一宮は吉備津彦神社、美濃一宮は南宮神社、 陸奥一宮は都々古別神社、常陸一宮は鹿島神社、信濃一宮は諏訪大社
神社の由来書や関連情報があればお教えください。

調査にご協力頂いた方々に感謝します。

本四公団広報課 島 様
上浦町、産業観光課の高原 様
株式会社シボク・柳川 直樹 様    siboque@ops.dti.ne.jp
野崎 準 様 仙台市 在住      jnozaki@msj.biglobe.ne.jp


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