化粧櫓 C

 この櫓(やぐら)が、「千姫」の「化粧櫓」(けしょうやぐら)です。  千姫は徳川2代将軍秀忠(ひでただ)の長女に生まれ。7歳で豊臣秀頼(ひでより)に嫁ぎ、 大阪落城の際、坂崎出羽守(でわのかみ)に救い出されました。「助けた者には姫を嫁にやる」 との祖父、家康の約束に従わず、本多忠政の長男で美男のきこえ高かった忠刻に嫁いで姫路に やってきたと伝えられます。

(故 成井 次郎 画  千姫と家康)


● 坂崎出羽守成政は、津和野3万石の城主ですが、約束が反古(ほご)にされるのを怒り、力づくで 姫の輿を奪おうと考えましたが、諫(いさ)められ自刃させられたと伝えられます。
千姫は夫、忠刻とともに、西の丸にあった御殿「中書丸」(ちゅうしょまる)や三の丸の下屋敷 「武蔵野御殿」(むさしのごてん)に住んでいました。

千姫の生涯

 忠刻(ただとき)と千姫は仲むつまじく、勝姫(かつひめ)と幸千代(こうちよ)の二人の愛児が 生まれましたが、幸千代はわずか3才でなくなり忠刻も又病死しました。悲しみの千姫は髪をおろし 天樹院(てんじゅいん)と号し、間もなく江戸に帰りました。なお、勝姫は後に鳥取、岡山の城主で ありました池田光政の夫人です。
忠刻の生涯

 忠刻はその子幸千代とともに、書写山円教寺境内にある本多家の廟所(びょうしょ)に葬られ ました。なお忠刻に殉じて、岩原牛之助、宮本武蔵の養子、宮本三木之助も墓前で、切腹し、更に 三木之助の家来、宮田角兵衛も死にましたので、これを哀れんで一緒に葬られています。
 この化粧櫓は、千姫が忠刻に嫁いできた時に与えられた10万石の化粧料、今でいう持参金の一部で 造ったもので、千姫が信心していた男山天満宮を拝むときの休息の場所、化粧の間であったと いわれます。「中書丸」「武蔵野御殿」も姿を留めない今、これは千姫の面影をしのぶ、ただ一つの 建物となりました。

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