<始めての洋式灯台 観音埼灯台>

 神奈川県、三浦半島の観音埼灯台が初めて点灯したのは明治2年1月1日(新暦)(1869年)です。 この灯台は四角い建物の上に灯塔をのせ、レンガづくりで白色に塗られていました。
フランス人技師、フランソア・レオンス・ヴェルニーとその部下達が建設し、彼らの努力により、 2年間に合計4つの灯台が次々と作られました。(野島埼灯台、品川灯台、城ケ島灯台)

 それ以後、建設された灯台はイギリス人、土木技術者のリチャード・ヘンリー・ブラントンを長とする三人の技術者たちで、 明治元年(1868年)来日以来、帰国するまでの8年間に全国26の灯台と2つの灯船を建設しました。 ブラントンは灯台の建設というハード部分だけではなく航路標識管理、 灯台管理方法などソフト面での体制整備に大きく寄与し『日本の灯台の父』と呼ばれています。

 急速な灯台整備の背景は、長州藩によるアメリカ商船、フランス軍艦、オランダ軍艦を 砲撃した、下関事件です(1863年および1864年)。その賠償金として300万ドルを請求された徳川幕府は100万ドルを 支払い残金の支払い遅延を要請したところ、イギリスを加えた四カ国は権利放棄の条件として、 輸入税の軽減、兵庫・大阪の開港、など12の条件をつけました。そのうちの一つが、 航路の安全を確保する為の8基の灯台建設が含まれていたのです。改税約書(江戸条約=灯台条約とも呼ばれる。1866年)

 その為、徳川幕府はフランス・イギリスに灯台設備とその建設を委託しました。 殖産興業、富国強兵を望む明治政府は灯台整備の計画を引継ぎ、航路標識を整えていきました。(日本の灯台より)

   写真右上は初代の灯台(模写 良)     右下は現在の灯台(3代目)


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