<ヘンリー・ニコラス・リドレーとゴム園>
ウイッカムが苦労した種子が東南アジアで成功するかと思われましたが、
10年ほどたっても、インド省やキュー植物園に入ってくる現地からの報告は
みじめなものばかりでした。
シンガポールではイギリスから送った苗を、税関の倉庫で全部枯らしてしまった
とか、セイロンから送られた苗は大きくなったがゴムが全くとれないとか。
そこで、フー園長は有能な弟子のヘンリー・ニコラス・リドレー(1855〜1956)
をシンガポール植物園園長として送りこみました。
リドレーがシンガポール植物園についてみるとゴム園はすっかり荒れ果て
ジャングルになっていました。彼はまず、ゴム園をたてなおす仕事からはじめ、
さらに、植物学者らしく、ヘベアのどの部分からラテックスが出てくるか 慎重に調べました。
そして、樹皮の外から1センチ奥にラテックスをためている管がある事を突き止め、
植物が成長する形成層を傷つけず、ラテックスを採るタッピング法をあみだしました。
(毎日少しづつ、溝を掘る)よい苗木作り、接ぎ木なども経験ゼロからはじめ、
ゴム園を経営する事がこれから有利な事をコーヒーや茶の農園経営者に説いてまわりました。
ほとんどの 経営者は「あほうのリドレー」といって、耳を傾けもしませんでした。
しかし、自動車用タイヤのゴム需要が高まり1,910年ロンドン・ニューヨークの
ゴム市場で最高値が付き、早くからリドレーの進言を聞いていた経営者は莫大な
利益を得ました。それをきっかけに1,910年から三年間の間に毎年1,200平方キロ
以上のジャングルが焼かれ、ゴム農園が開かれました。その煙マラッカ海峡を通る
客船からもよく見えたとの事です。
1,911年、リドレーは 植物園を退任しましたがそのままシンガポールにとどまり
ゴム事業に貢献しました。なんと、100歳のとき、イギリス女王からサーの称号を授かり、
101歳で生涯を終えました。
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