千石船
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江戸時代の中ごろには経済が活発化し航路が開発され、物流が進み船舶の大型化がはかられました。
北前船(きたまえぶね)桧垣回船(ひがきかいせん)樽回船(たるかいせん)などと呼ばれました。
北前船(きたまえぶね)
江戸時代の回船の一つ。江戸時代中期から明治時代初期にかけて、北海道の海産物や北国の米などを日本海・
瀬戸内海回りで上方(かみがた)へ、上方の酒・塩などを北国に運搬した。北国回船。北国船
日本語大辞典 講談社 1989年
千石船
千石船というのは、ただ米千石を積む船があればそれを千石船とよんだ。特定の船型があったわけではない。
しかし江戸時代になって千石積級の荷船(廻船)がごくふつうに使われるようになると、大型廻船を代表する
という意味で、いつか千石船の呼び名が普及していった。
しかし今、千石船の名で理解されているのは明らかに一つの船型であって、いわば和船の代表的船型といった
ものに限られている。当時、この船型を「弁才船」とか「べザイ造り」とか呼んでいるが、その語源ほよくわからない。
弁才船は全国的に知られた和船の代表的な存在だったが、17世紀後半に瀬戸内海を中心に発達したもので、
当初は必ずしもこれが大型廻船の代表ではなかった。大体、江戸時代初期から中期にかけては多くの船型、
たとえば伊勢船・フタナリ・北国船・マゼ・ハガセ等があったし、その頃ではむしろフタナリや北国船型のほうが
大型廻船として代表的存在でさえあったのである。しかし、これらの大船も、江戸中期以後はだんだんと姿を消して、
弁才船が全国的に普及するようになり、やがて廻船といえば弁才船の姿しか見られなくなって、
今日では千石船=弁才船ということになってしまった。
船 須藤 利一 法政大学出版局
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