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“ダマスカス鋼”の謎に迫る
人類がステンレス鋼を手に入れるまで


 “ダマスカス鋼”は別名“ウーツ鋼”ともいい、もともと古代インドで作られたものだった。しかし初めて作られたのがいつ頃なのか、はっきりしていない。
 インドの“デリーの柱”と呼ばれる巨大な鉄柱はダマスカス鋼で出来ているといわれている。それがつくられたのは紀元3〜4世紀頃といわれているが、ダマスカス鋼そのものはもっと古くから作られていた筈である。
  このダマスカス鋼は、その表面に浮かぶ独特の模様と、錆びないということで有名だった。
 これはデリーの柱の科学的調査で明らかになったことなのだが、驚くべきことにそれは“
鍛鉄”で出来ていたのであった(合金鋼ではない)!
 鉄でありながら錆びることがない・・・古代インドには“
神秘の鋼”が存在したのだった。
 


デリーの柱
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ダマスカス鋼のレプリカ

 インドの製鋼は非常に古い時代から優秀で、Kamptee(インドの都市ナグプールの傍の町 )のウリー・ガオンのそばの墳墓から鋼の丸ノミ等が発掘されており、これは紀元前1500 年ごろ(紀元前600年説もある)のものである。したがって、ほぼモーゼの時代のものと思われ、デリーの柱の可能性のあるもっとも古い日付よりもさらに数百年前のものである。


  ダマスカス鋼は柱用の鋼としてではなく刃物用として有名であった。ダマスカス鋼で作られた刀剣は、“もし絹のネッカチーフが刃の上に落ちると自分の重みで真っ二つになり、鉄の鎧を切っても刃こぼれせす、柳の枝のようにしなやかで曲げても折れず、手を放せば軽い音とともに真っ直ぐになる”といわれている。これが多分に大げさなものであることが予想出来るが、このような話ができるほどダマスカス鋼は優秀であった。それは刃物として良く切れるということだけでなく、その強靭さと表面の独特の模様、そして錆びることがないという神秘性からだという。


  紀元前9世紀に、小アジアにあったバルガル神殿の年代記には、この鋼の作り方を次のように述べてある。
  「平原にのぼる太陽のごとく輝くまで熱し、次に皇帝の服の紫紅色となるまで筋骨逞しい奴隷の肉体に突き刺して冷やす、・・・奴隷の力が剣に乗り移って金属を硬くする」。
 奴隷の肉体に突き刺すのは“焼入れ”の意味があるのだろう。中世にはこの焼入れを「赤毛の少年の尿の中で行う」ことを勧めていたという。


  これほど有名であり、インドを中心に近隣諸国に輸出されたダマスカス鋼だが、その製法は伝えられずダマスカス刀の製法は父子相伝でそれを知るものは極めて限られていたという。それゆえに様々な迷信も伝わったのだろう。

  紀元前4世紀ごろ、インド鋼はすでに大きな名声を得ており、インドの王侯Porus がアレキサンダー大王に重さ30ポンド(約15Kg)の純粋なインド鋼の塊を贈ったという報告がある。


  十字軍時代にはダマスカス刀は比類無き名剣として尊重され、王家の家宝として伝えられた。また十字軍騎士たちはダマスカス刀を所持することを誇りとしていたという。しかし、やがて鉄砲が出現し、ダマスカス刀はその意義を失い廃れていくことになる・・・。

幅 10mm
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光学顕微鏡組織写真


 そして時は18世紀後半、産業革命とともに良質で安価な金属が大量に必要になってきた。そこで金属の性質を根本的に研究する必要が生じたとき、再びダマスカス鋼(ウーツ鋼)が脚光を浴びる時が来た。


 ダマスカス鋼に関する迷信のーつに「7種の金属の混合物から出来ている」というのがある。これはその切れ味や、独特の模様だけでなく、「錆びることがない」という鋼の常識を覆す性能をもっていたからである。言うまでもなく、この性能は産業革命時代に極めて重要な意味をもっていた。


 インドにいた英国の旅行家P・スコットは当地の「ウーツ鋼」に興味をもった。その鋼で作った刃物や鉄砲は他のどこのものより優秀だったからである。彼はボンベイでウーツ鋼を買いあつめ、本国へ持ち帰って英国王立協会に引き渡した。研究よりもその謎を解きあかすのが目的である。1820年のことであった(研究を依頼したのはロンドンのストダートで、1810年代だという説もある)。


 ウーツ鋼即ちダマスカス鋼の研究には、かの有名なマイケル・ファラデーが当たった。その目的はダマスカス鋼よりも優れた刃物を作ることであった。ファラデーは「7種の混合物」の伝説を意識してか、るつぼ鋼に各種の貴金属を添加する研究を行った。その合金の種類は79種まで及んだという。ファラデーはアルミ、ニッケル、クロム、銀等さまざまな合金鋼を研究し、白金を添加した合金鋼は屋内に長く放置しても錆なかったという。


 そしてファラデーはストダートと連名で初の合金鋼の論文を発表した。史上初の(正しくはダマスカス鋼に続く2番目の)ステンレス鋼は”白金鋼”であった。しかし、これは工業的には利用できず、ファラデーのダマスカス鋼への挑戦は失敗に終わった。この研究の成果としての試料は今も王立研究所に残っている。


 1828年、ロシアの冶金学者アノーソフはファラデーの研究を知り、自らもダマスカス鋼の謎に挑んだ。アノーソフもファラデーと同様に単純な鋼をダマスカス鋼化する”魔法”の添加物探すことから出発した。金、銀、白金、そしてダイヤモンドさえも添加したがダマスカス鋼は得られなかった。そして、金属組織の研究に、断面を腐食して顕微鏡で観察するという方法を考案し、ついに本物のダマスカス鋼を得た。時は1838年であった。


  アノーソフによると、ダマスカス鋼の模様はその内部組織を表しており、さらに組織と機械的性質が関係していると言う。ダマスカス鋼の模様は、一般には鋼と鍛鉄の棒を束ねて鍛接し、その合成によって人工的には模様をつくり出したものだと考えられているが、(注.現代のダマスカス鋼はこの製法である。よってオリジナルのレプリカといえるだろう)、本物のダマスカス鋼の模様は、溶けた鋳鋼がるつぼでゆっくり凝固するときの内部結晶作用によって生じたものである。これは後にチェルノフによって科学的な説明がなされた。すなわら鋼が凝固するとき、最初に炭素濃度の低い高融点の鋼が結晶になるがそれは樹枝状晶である。つぎに低融点の炭素を多く含む小結晶が樹枝状晶の間を埋める。

幅 500μm
幅 125μm
幅 25μm

電子顕微鏡(SEM)組織写真


 こうして一方は硬く、一方は粘りのある結晶の複雑なからみあいが生ずる。ダマスカス鋼の鍛練はこの樹枝状晶をこわさないように、ただこねる程度にすることが必要だったのだ。また組織だけでなく刃を作る特殊な技術にも秘密があることが判明した。


 1841年、多年の研究成果をまとめた「ダマスカス鋼について」と題したアノーソフの著書が出版された。この研究は19世紀後半にチェルノフに受け継がれ、さらにそれがべラーエフに受け継がれて、1918年のイギリス鉄鋼協会紙に「ダマスカス鋼」と題して発表された。


 ところで、ダマスカス鋼の硬さと粘り強さ、いわゆる刃物として高性能については解明されたようだが、肝心の「錆びない」という点についてはどうなったのか?

 1821年、アノーソフ同様フランス人のベルチェもファラデーの研究に注目し、複合酸化物を還元して直接に鉄・クロム合金をつくることに成功した。そしてこのクロム鋼が耐蝕性を示すこと見いだした。ダマスカス鋼の模様と切れ味にこだわるのではなく、鉄・クロム合金の耐蝕性についての研究がアノーソフとは別のところで始まったのだ。


 1838年にフランス人のマレーも鉄・クロム合金の耐蝕性について研究した。1854年〜1859年にはドイツのブンゼン、フランスのデビル、フレミー、ドイツのべーレル等によって、金属クロムが王水などの酸に対する耐酸性に優れていることが見出された。


 1872年、ウッドとクラークは30〜35%のクロムと若干のタングステンを含有する合金が耐酸・耐候性に優れていることが見出し、イギリスで特許を得ている。
 1889年、イギリスのライレイはニッケルが鋼の耐蝕性を向上させることを見いだした。
 しかし1892年、イギリスのハッドフィールドはクロム含有率が約17%までの鉄・クロム合金について研究し、しかも炭素量が1〜2%と高い上にその耐蝕性の評価に50%の硫酸を用いたため、クロムは鋼の耐蝕性を低下させるという結論を下してしまった。


 ハッドフィールドの報告により一時下火となった鉄・クロム合金の研究だが、1895年、ドイツのコールドシュミットはテルミット法という方法で低炭素のクロムおよび鉄・クロム合金を製造することに成功し、ドイツ特許を出願した。この方法は各国の冶金学者たちにこの分野のその後の研究の端緒を開くことになった。


 1898年、フランスのカルノーとケータルは鉄・クロム合金の耐蝕性は炭素含有率が高いと劣化することを初めて見いだした。
 1899年、フランスのエルーは後にステンレス鋼を製造するのに重要な役割を果たす弧光式電気炉を発明した。
 そして時代はいよいよ20世紀になるのだが、19世紀の研究では現在ステンレス鋼と呼ばれているものの一歩手前で、結局ステンレス誕生には至らなかった。
 しかし、20世紀になると多くの学術的研究が実を結び、遂にステンレス鋼が完成されてゆく・・・。

反射電子像 C濃度分布
Ni濃度分布 Fe濃度分布

EPMA元素分布写真10mm×10mm

 1904年、フランスのギレーは低炭素の鉄・クロム合金の一連の研究を発表し、それらの金属組織から“フェライト”、“マルテンサイト”等の分類を行い、1906年には鉄・クロム・ニッケル系合金に関する研究結果を発表した。これは、現在の”オーステナイト系”に近いものがあった。


 1908年、ドイツのモンナルツとボルヘルズは鉄・クロム合金の耐蝕性は“不動態化”現象によることを見出した。そして1911年に発表した論文の中でステンレス鋼の耐蝕性に関して多くの注目すべき現象について述べている。そしていよいよステンレス鋼が工業材料として実用化されてゆく。


 1913年、イギリスのブリアリーによってマルテンサイト系ステンレスが実用化、1915年からはアメリカでも実用化が始まった。
 1914年、アメリカのダンチゼンによってフェライト系ステンレスが実用化。
 1914年、ドイツのマウラーとシュトラウスによってオーステナイト系ステンレスが実用化された・・・。


 こうしてファラデーから始まった錆びない鋼の研究は世界中に広がり、遂に人類はステンレス鋼を得たのだった。インドからイギリスへダマスカス鋼が持ち込まれてから約1世紀の時が流れていた。
 しかし、まだ疑問は残る。人間はステンレス鋼を得たが、果たしてダマスカス鋼の謎を解いたことになるのだろうか?ステンレス鋼は基本的にクロムを含有する合金で、錆びない秘密は不動態化によるものだった。しかし古代インドのダマスカス鋼はクロムを含有していない。ただの鋼である。しかも超高炭素鋼であった。現代の科学からして何らかの表面処理でもしない限り絶対に錆びるはずである。ここまで来て今更のように素朴な疑問が浮かび上がってくる。


  「ダマスカス鋼は本当に錆びなかったのだろうか?」

 舞台は再びインドのデリーの柱に戻る。
 このデリーの柱と呼ばれる鉄柱は高さ15m以上、直径40cm以上の巨大なもので、建てられてから1600年以上も経っているが、今も完全に原形を留めている。デリーの柱はクツブミナール寺院に立っており、ほとんど野ざらし状態である。これほど巨大な鉄柱をどのようにして作ったのかも大きな謎であるが、今は「錆びていない」という事実に注目したい。

反射電子像 C濃度分布
Ni濃度分布 Fe濃度分布

EPMA元素分布写真10mm×10mm

 しかし良く見ると、この柱はステンレスのような金属光沢はない。もちろん出来た当時からそのような表面だったのかも知れないが・・・。


 この柱には毎年多くの観光客が訪れる。その人気の秘密は「この柱は地中深くに達し、地中を支配する蛇の王 Vasuki の首に刺さっている」という伝説によるらしい。そして観光客たちはその柱を触ったり、中には上までよじ登る者もいるという。さらに現地の人々は体に油を塗って太陽光線から肌を守る習慣があり、その油が柱につくことによって錆を防いでいるのではないかとする説もある。
 しかしそれではあまりのも単純ではないだろうか?世界にその名が知れ渡った神秘の鋼が「実は油が塗ってあっただけ」ではいくらなんでも納得できない。


 もしかしたら「古代インド」という響きが我々に神秘的な印象を与え、世界を夢中にさせたのだろうか・・・。
 しかし、その神秘性が人々をひきつけ、ステンレス鋼発明の原動力になったのも事実だろう。


 やはり“神秘の鋼”は神秘のままでよいかも知れない。

(株式会社ニッテクリサーチ材料技術部 長谷川泰秀)


[参考文献]
・ルードウィヒ・べック著/中沢護人訳:鉄の歴史 第1巻,(株)たたら書房(1974), 原著:GESCHICHTE DES EISENS (1891)
・E・M・サビツキー,B・C・クリャチコ著/木下高一郎訳:金属とはなにか,(株)講談社(1975),原著:METAЛЛЫ KOCMИЧECKOЙ 3PЫ (1972)
・大山正,森下茂,吉武進也著:ステンレスのおはなし,(財)日本規格協会(1990)
・増子昇著:さびのおはなし,(財)日本規格協会(1990)
・井上勝也:錆をめぐる話題,(株)裳華房(1994)
・ステンレス協会編:ステンレス鋼便覧-第3版-,日刊工業新聞社 (1995)
・中沢護人,窪田蔵郎,尾上卓生他:ナイフマガジン65,(株)ワールドフォトプレス(1997)



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