不戦の城

 姫路城は赤松貞範(さだのり)が南北朝時代に築き、戦国時代を経ましたから、この城でも戦いが あったのではないかと考えられます。しかし、いつも出かけていって戦っているようで、近くで、 戦われたことはあったでしょうが、この城で戦があった記録はありません。

不燃の城

 棟瓦(むねがわら)に鯱鉾(しゃちほこ)を用い、門の名にも「水」を使うなど、木造建築物の お城は火をおそれました。
 このお城は代々の藩主が厳しく戎めてきましたから、落雷で少しこわされたことはありますが、 火災は全くありませんでした。
 ところが、明治になって歩兵第10連隊がおかれてから、火事を起こし「備前丸」を焼いてしまいました。
 しかしそれだけで、大平洋戦争でも、空襲を受け焼夷弾(しょういだん)が落ちましたが、 幸い、奇跡的に助かりました。
 従って、400年近くの間にただ一度ということになります。

姫路藩の侍数

 姫路の殿様に仕えた侍は、築城した池田氏時代、300石以上の者で、500人余り、次の本多氏では 忠刻の家来を合わせ、足軽、小者を加え約4000人、榊原氏時代には3000人、最後の酒井氏時代は2200人ほどでした。

築城の年数、人数

 この城は、慶長6年(1601年)から、池田輝政が築いたものですが、8年間、足かけ9年かかっています。
 従事した人数はわかりませんが、戦いに集められる兵卒の標準は1万石につき200人だったそうですから、 仮にこれに従って計算してみると延べ5000万人以上に達することになります。どんなに少なく 考えても3000万人はくだらないと考えられています。

昭和の築城

 木造建築物の姫路城は、何度か、修理が行われてきましたが、根本的な保存工事が昭和9年から行われました。  まず、西の丸から行われ、太平洋戦争で中断しましたが昭和25年再開され、そして31年から 天守閣の解体復元が行われました。
 その方法は、全て図面や写真をとって解体し、腐った部分をとりかえて元通り造り直すのですから、 天守閣だけでも8年間、延べ、約25万人が従事し、当時のお金で5億5千万円かかりました。  これは「昭和の築城」と呼ばれ、昭和39年6月1日完成したのでした。

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