姥ケ石の伝説 H  (うばが石)

 石垣の中ほどに金網で囲まれたヒキ臼(うす)のカケラが見られますが、あの石は 「姥ケ石」と呼ばれ、こんな話しが伝えられています。
 秀吉がここに天守を築いたとき、たくさんの石が必要なのに、思うように石が集まらず 石奉行は頭を悩ましました。
 そのころ城下で焼きモチを売って細々と暮らしていた一人の老婆がこのことを聞いて、 住民を守ってくれるお城のためにと思いたち、せめて、これでもお役に立てばと商売道具の 臼を差し出したのです。
 このことを知った秀吉は、大変喜び、感心してさっそくあのように積み加えました。 このことを聞いた人々は、われもわれもと、競って石を差し出しましたので、工事は 見る見るうちにはかどったということです。
 しかしこの伝説を裏返してみると、封建時代での領主の取りたてがどんなに厳しいもので あったかを物語っているともいえましょう。

お城の石

 お城はどちらを向いても石で固められていますが、お城を築く材料でまず必要なのは石と木です。  このお城には、石灯篭(いしどうろう)、墓石、石棺(せっかん)などの用いられてありますが、 戦国の世にいちいち石を選ぶ事などできなかったのでしょう。  記録もなく数えた人もないのでわかりませんが、この一帯「内曲輪」(うちくるわ)だけで 石垣の面積は約2万8千m2、容積は3万8千m3以上、その重さは10万3千トン以上と考えられます。 今これを船で運ぶとすると3千トン積みの船なら35隻、5トンコンテイナなら21,000個が必要という 勘定になります。
 中には数百トンもあろうと思われる巨石もずいぶん使ってあり、機械力もない時代ですから、 もっぱら人力に頼って苦労したと考えられます。



(石垣に使われた石棺)





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