信長の鉄甲船

 戦国時代における最大の海戦は、一向宗(いっこうしゆう)の石山本願寺に支援物資の補給に 向かった毛利水軍(村上・小早川連合水軍)と、それを迎え撃つ織田信長(九鬼水軍)(くきすいぐん) とが二度にわたって繰り広げた戦いでしょう。
 最初の海戦は、待ち受けていた300隻の九鬼水軍に800隻もの村上水軍が襲いかかり、 得意とする焙烙(ほうらく)攻撃によって九鬼水軍がことごとく打ちのめされました。
 そうなると、信長は黙っていられません。焙烙攻撃を防御するため、厚さ3ミリの鉄甲で船の 外板を覆った1、500石積の大型安宅船を、わずか2年の間に6隻も建造。九鬼水軍が得意としていた 砲撃術を活かすため、大砲3門を船首側に設置して次の海戦に臨みました。
 さて、前回と同棲な規模の海戦が再び始まりました。戦いの顕末は、「6隻の大安宅船が敵船を 間近に寄せ付けては、ことごとく大砲で打ち崩した」と後の信長公記にあるように、村上水軍の焙烙攻撃も 鉄甲を張った安宅船には効果がなく、九鬼水軍が圧勝。戦いを指揮した九鬼嘉隆(くきよしたか)は 信長から伊勢・志摩3万5千石が与えられました。
 海戦に勝利した鉄甲安宅船は、堺に入り、港は船をひと目見ようと集まった人々で賑わったといいます。 また、宣教師オルガンチノは「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られて いることは驚きだ」と述べています。

ニッポン大航海記  はれ情報 No.198 APRIL 2001


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