『村の鍛冶屋』

 昔の春日井は、日本のどこでも見られた農村で、住民の多くが主に農業で生計を立てていました。 農業を営むうえで必要な道具は、機械化が進む以前は手作りのものがほとんどで、その多くは何度も修理されて 長く大切に使われてきました。 その修理の担い手が「村の鍛冶屋」と呼ばれた農鍛冶(のかじ)で、 農業を支えていた職能集団と言っても過言ではありません。 しかし、かつては市内に20軒ほどあった鍛冶屋も、 昭和40年(1965)ごろから農業の機械化や生活の近代化でほとんど姿を消してしまい、現在では1軒を残すだけになりました。

 村の鍛冶屋では、農家から用途や土の性質などをよく聞き、その地域に合った農具を製作していました。 このような農具は、農家と村の鍛冶屋の合作と言えるものです。農具は「さきがけ」と呼ばれる方法で修理されていました。 これは、ふいごで風を送って高温になった火床(ほど)で、欠けた刃先と新しい刃先になる鉄片を加熱して、 槌(つち)で打ってつなげるものです。

 鍛冶屋の技術は、親方から弟子に直接受け継がれてきました。 市内に1軒残る鍛冶屋「鍛冶光」 (坂下町2)を営む小林光義さん(大正9年生まれ)も、尋常小学校を卒業後、出川にあった鍛冶屋に弟子入りして、 20歳ごろまで住み込みで修行したそうです。 昭和25年に現在の場所に店を構え、今でも農具の修理の依頼を受けています。
 近世の県内の農鍛冶には、三河に豊橋の「吉田鍛冶」、尾張に知多半島の大野谷(現在の常滑市と知多市)の 「大野鍛冶」と呼ばれる2大集団がありました。 吉田鍛冶が鍛冶町を形成し、定住して営業する 「定鍛冶(じょうかじ)」だったのに対し、大野鍛冶は農閑期を利用して各村々へ出張して仕事をする 「出鍛冶(でかじ)」でした。 江戸時代の終わりごろには、大野鍛冶が春日井へ出鍛冶として来ていた記録が残っていて、 大野鍛冶とのかかわりが深かったようです。 昭和43年の市内の農鍛冶組合の名簿に掲載された、 19軒の鍛冶屋を調べてみると、小牧で修行していた鍛冶屋が3軒、本人か先代が大野谷出身の鍛冶屋が7軒、 親方が大野谷出身の鍛冶屋が5軒ありました。

市内唯一の鍛冶屋「鍛冶光」での作業風景

鍛冶屋によって作られた備中(上)とくわ(下)

市長室広報広聴課(電話0568-85-6036)のご了解の上
広報紙 平成13年12月 1日号 の村の鍛冶屋の記事を、転載させて頂きました。
http://www.city.kasugai.aichi.jp/shityositu/koho/top-a461.html


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