『砥堀(とほり)』   (7月号)

 市川の右岸、姫路市白国の東北に砥堀という地名があり、JR播但線の駅名にもなっています。 この砥掘という地名は『播磨風土記』によれば、むかし応神天皇の御代(5世紀初めごろ)に、 神前郡と飾磨郡との境、大川の岸に堤を造った時、砥石を掘り出したので砥掘と名づけたとされている。
 韓国の昔の話に、以下のようなものがあります。又、『新羅訓山』と呼ばれた山のすそ (現在の広嶺山か?)に白国があり、白国神社が祭られているのも韓国との関りを証明するものかも知れません。

 むかし、倭国あたりから新羅に流れ着いた昔脱解(ソクタル)という人が都城(慶州)の付近にある吐含(トハム)山 に登って城内を見下ろしたところ、居住するのによい土地があったので、翌日、その地へ行ってみると、瓠公(ホゴン) という偉い人が住んでいた。
 そこで昔脱解は悪智恵をはたらかして、砥石と炭をその家のそばにこっそり埋めて置いて、翌朝その家へ行って言った。 「ここはわが祖先から代々住みついたところであります」瓠公は、そんなはずはないと互いに争ったけれども、 決断がつかないので官庁に訴えた。 そこで、官庁では昔脱解に尋ねた。
「何の証拠をもってここを君の土地と言うのか」と。 昔脱解が答えるには、「わが家はもともと鍛冶屋であって、暫く他所へ行っておる間に、もとの地は他人がとっで 暮らしていたのであります。その証拠に地を掘って調べてみましょう」と言って、地を掘ってみたところ、果たして 砥石と炭が出てきたので、脱解はその家を奪つて住むようになった。

 以上の話から、この砥掘というところから砥石が掘り出されたということは、このあたりにむかし鍛冶屋が 住んでいたことの証拠で、市川へ流れ出る砂鉄を採取し、鉄を造り、鍛冶をしただろうと思われます。

参考図書

兵庫の中の古代朝鮮  タン・ヒリン 神戸新聞出版センター  1985年


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