『 方広寺梵鐘 』 (芥田五郎右衛門)

 京都国立博物館の北隣に豊臣秀吉を祀った豊国神社があります。同じ敷地内か?隣の方広寺へいきました。 梵鐘の銘文に『国家安康』『君臣豊楽』の文字が刻まれています。徳川家康に難癖をつけられ 『大阪夏の陣』の口実になったことは有名な話です。
私の興味はそのことではなく、この大梵鐘の製作に関わった人たちのことです。姫路近辺に戦国時代末期より、 芥田(あくた)五郎右衛門という郷士が住んでいました。加西郡芥田城の城主だったことも有ります。 代々芥田五郎右衛門を襲名し、播磨の鋳物師(いもじ)の棟梁を務めていました。(播磨国鋳物師惣管職) 鋳物師としての三代目にあたる、芥田五郎右衛門充商(家次)が脇棟梁として播磨の鋳物師達百数十人を同道して、 この方広寺大仏に付随する大梵鐘の製作にかかわったのです。

 大工は三条釜座(さんじょう かまんざ)の名越弥右衛門尉三昌、脇大工には芥田五郎右衛門のほか江戸より一人・ 駿河より一人と記されています。慶長19年(1614)3月、82トンの大梵鐘の本体が吹かれました。 非常に大きな梵鐘でしたが、見事に吹上げることができました。その功績により、芥田五郎右衛門は薩摩守の称号を得ています。 こんな大きな梵鐘、今でも出来るのでしょうか?ちなみに知恩院の梵鐘は70トンとのことです。

大仏殿の風鐸が鐘楼にころがっていました。それには三条釜座の名越の銘が刻まれていました。
なお、この大仏殿は慶長16年(1614)11月に完成しました。


風鐸の銘
慶長拾七 壬午 暦  三月吉日 鋳物師 大工 名越弥右衛門尉 藤原朝臣三昌
                       近藤左衛門尉   藤原朝臣宗久
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大工:今では家を建てる人だけを大工と言いますが、辞書には・・律令制で、木工寮
  (もくりょう)又は大宰府に属した工人の長。(広辞苑)
   鋳物師(いもじ)大工  鍛冶(かじ)大工 などと言いました。

  
参考資料  方広寺拝観の栞
      松岡秀夫傘寿記念論文集 兵庫史の研究 脇田 修  1985年
      播磨国鋳物師考     竹内 貞  1980 年

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