桜井源兵衛の伝説 腹切丸 M
帯の櫓 N
ここで、天守に残る悲しい伝説をお聞きいただきましょう。
池田輝政がこの天守を築いたときの大工の棟梁(とうりょう)は桜井源兵衛という人です。
源兵衛は天守ができあがり、重荷をおろしたようにほっとしましたが、しかし墨入れに誤りが
あったのか、せっかく丹精をこらした天守が東南の方に傾いているように見えます。
ある日妻を伴って天守に登りますと、妻からも「天守はりっぱに出来ましたが、惜しい事に少し
巽のほうに傾いています。」と指摘されました。
源兵衛は「それが女の眼にも見えるのか」と悲しみ、ある日ひとり天守に登り、ノミをくわえて
飛び降りて死んだと伝えられます。
姫路城の井戸
城内の内曲輪(うちくるわ)に井戸が33ヶ所ありましたが、現在残っているのは13です。
もっとも深いのは備前丸の井戸で30m、水深は6mで、帯曲輪(おびくるわ)井戸櫓(備前門の前)
は25m、水深は建築後、水脈が変わったのか1mだそうです。
腹切丸 M
この櫓は「腹切丸」(はらりきまる)と呼ばれます。板の間が切腹の場、高い段は検死役の役席、
井戸は首を洗う井戸、更に重苦しくのしかかる石の穴門、出口のない構えなど、切腹場として舞台装置が
整っていることから、「腹切丸」などと呼ぶようになったのでしょう。
しかし城主はもはやこれまで…・というときは、天守で自害するのが慣わしですし、罪人は邸内の
庭先か、それとも獄舎内で切腹させるのが通例で、お城の中のこのような場所を用いる筈はありません。
この櫓の正しい名前は「帯郭櫓」(おびくるわやぐら)で、検死役人の席にみえるあの台は、狭間からの
射撃に便利なための石打棚にすぎません。
この一角は本丸や搦手口(からめてぐち)に近く、大切な守りの場所でこうした構造になっています。
帯の櫓 N
また石の穴門上の櫓は「帯の櫓」といいまして、伏見城から移したといわれる数奇屋(すきや)造りに
なっていて、来客の休憩所でもあったのでしょう。外側の石垣は城内で一番高く、26mもあります。
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