「歎異抄」を読んで

「歎異抄」に出会ってから10年近く経つ。
精読したのは、還暦過ぎて間もない頃ある。 アルバイトで或る現場に通っていたが、昼の休みに1頁〜2頁と何回も何回も意味が分かるまで読み返した。 文としては短いもので、岩波の文庫本で実質注釈込みで50頁ほどである。
読み終えて、正直 感動した。 こんな素晴らしい本を何故今まで知らなかったのか、不思議な感じさへした。 仏教の本ではあるが より以上に文学的で、日本の古典文学としても実に素晴らしいと思う。
最終章(十八)の「露命わずかに枯草の身にかかりてさふらふほどにこそ、....閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめと、なげき存じさふらいて、....」あたりまで読み来ると、唯円の嘆きが切々と胸に響き目頭が熱くなり、涙が出て来るほどの感銘を受ける。 以来、私の座右の書である。

親鸞と言えば「歎異抄」であり、「末燈鈔」も「教行信証」も全文読んだ事はないが「歎異抄」一冊で浄土真宗の教義の真髄に触れた感がある。 私ごとき学のない者にも平易で分かり易く、得難い本である。 弟子”唯円”が、よくぞ書き残したと言うべきか。

真宗の教義は総て第一章に要約され、第十二章に「他力真実のむねをあかせる、もろもろの聖教は、本願を信じ(信) 念仏をまうさば(行) 仏になる(証) そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや」という適切な言葉がある。

私の家は、浄土真宗と聞いているが、「歎異抄」に出会う前までは、仏教そのものには関心がなく、葬式か法要の時だけの宗教であった。 真宗の認識を一変、如何に生きるかが問題であり、信仰心の大切さ、そして何故か蓮如や吉崎ブームにも思いを馳せた。 また、戦時中、死を覚悟して出征した若者や学徒達は、千人針と一緒に「歎異抄」を忍ばせて行ったと聞くが、その心境もさもありなん!と思ひ、その心情が改めて偲ばれる。

 ※ 以下に印象に残る言葉を、書き記してみる。

◆ いずれの行もをよびがたき身なれば、、とても地獄は一定すみかぞかし。
  弥陀の本願まことにおはしまさば、・・・

◆ 善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。・・・

◆ ・・・久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく・・・

◆ 本願を信じ念仏を申さば仏になる、そのほか、なにの学問かは往生の
  要なるべきや。・・・

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