「徒然草」 に思う事

「つれ"/\なるままに、日くらし、硯にむかひて、・・・・」
有名な「徒然草」の序段 書き出しである。

若い頃は、全部読了した訳ではないが、昔の人が閑にまかせて書いた本くらいの認識しかなかった。 そして西洋文明に追いつけ追い越せの時代には、日本の古典としての価値は認められても、惚れ込んで読むような本ではないと思われていた。

今では、閑に委せた軽いエッセイなどを「つれづれ草」に例えることも多いようだ。 確かに「つれづれになるままに」は「することもなく、退屈なので」と言うような意味かも知れない。
しかし兼好法師の残した「徒然草」は決して閑にまかせて書いた本でもなければ、日誌のようなものでもない。 自分の考え方を、読まれることを意識して書いた一つの人生哲学のようなものである。 読んでいて飽きないのは、その真摯な姿勢に因るのではなかろうか。

古来、日本の文学は仏教の影響を少なからず受けているが徒然草もしかり、仏教に多少とも造詣がなければ興味が薄れるかも知れない。 そして読み易くする為に、現代語訳が出ているが、古典の現代語訳ほどつまらないものはない。 味わいというものが全然なくなり、全く別の読み物でなってしまう。

言葉の意味が分からなければ読書にならないので注釈は必要、しかし注釈の助けを借りても本は原文で読むべきだと思う。 何回も読み返していると自ずと意味がわかり、味わいが出てくるものである。
古典は面白いから、そして普遍的な価値があるから読み継がれてきたものである。 じっくり読めば面白い本が多い。 これは「徒然草」に限らず「今昔物語」「源氏物語」「方丈記」「平家物語」etc、総てに通ずると思う。

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