『新羅訓神社(白国神社=しらくに)』 (8月号)
現在は白国神社と書かれ、安産と育児の神様として若い夫婦づれや子供を抱いたお母さんに人気の神社です。
元は新羅人(しらぎ)の祖先を祭った神社だったのでしょう。社会が変わり、そこに住む人々の生活が変わって
ゆくと神様も変神してゆきます。
新羅訓神社(しらくに)は枚野里(ひらののさと)新羅訓村(しらくにむら)にあり、むかし新羅の人が渡来し、
ここに留まったのでその名が出来たと播磨風土記には書いてあります。私はこの人々が鍛冶職人の集団だと思い
調べに行ってきました。『金鋳場(かねいば)』と呼ばれる小字が白国神社の東にありました。
広峰山の周りには製鉄や金属加工にまつわる旧地名や伝承が残されています。渡来したのは鍛冶屋集団に違い
ありません。先月は、砥堀の話を書きましたがすぐ近くです。
祭神と創立 白国神社の由来書による
神吾田津日売命(かんあだつひめのみこと)=木花咲耶媛(このはなさくやひめ)
稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)
阿曽武命(あそたけるのみこと)
当神社は今を去る千七百年の昔景行天皇(けいこう天皇)の皇子稲背入命が大和から当地へ下向された時、
この自国の地に宮殿を構えて播磨地方を統治された、ある日のことその御孫阿曽武命の妃高富媛(たかとみひめ)
がご出産にあたり大変苦しまれた時、命は倉谷山の峰に白弊(はくへい)を立て神吾田津日売命を祀り一心に
安産を祈願されたところ女神が忽然と現れ「妾が神吾田津日売である汝の祈りは天に通じている妾(わらわ)が
この地に永く留まって婦人を守護し安産させましよう」とお告げになると白弊が天高くに舞い上がり
その自弊と共にお隠れになった。阿曽武命が館に帰られると無事に男子を出産されていました
その神徳に感謝され早速倉谷山の麓に社殿を設け、神吾田津日売命を祀られたのが白国神社の創立である。
参考図書
ふるさと しらくに
白国神社 由来書
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