姫路藩の西洋型船建造

 徳川幕府は寛永15年(1638)5月2日に法令を出して、荷船以外の大船建造を禁止し、 厳重な造船制限をおこなってきたが、ついに大船の必要を認めて、嘉永6年(1853)9月15日に 実にこ115年ぶりでこの禁止令を解除した。そして、幕府は自ら範を示すために、 安正元年(1855)に相州浦賀(神奈川県横須賀市浦賀町)で三本マストの西洋型船鳳凰(ほうおう)丸を建造した。 また同じ年に水戸藩でも江戸石川島で西洋型船旭日丸の建造に着手し、鹿児島藩も三木マストの西洋型船 昇平丸の建造をはじめた。さらに安政2年(1855)正月には豆州君沢都戸田(へだ)村(静岡県田方郡戸田村)で、 ロシア人指揮のもとにへタ号建造の突貫作業がおこなわれていた。こうした情勢のなかで、姫路藩の国学老、 秋元正一郎安民(1823-1862)は、安政2年(1855)春、摂津船永力丸の漂流者を引見したところ、 水主(かこ)の清太郎に西洋型船の造船知識があるのを知り、清太郎を起用して西洋塑船を建造するように 藩主酒井雅楽頭忠顕(さかいうたのかみただてる)へ建言した。
 秋元安民が造船総理となって、室津(兵庫県揖保郡御津町室津)でスクーナー型船速鳥丸(はやとりまる)を 造ることになった。播州加古郡西本庄村(兵庫県加古郡播磨町本荘)出身の清太郎は、本荘善次郎の姓名を与えられ、 帯刀を許されて士分になり、大工指揮役になったが、さらに安政2年(1855)11月13日付で二人扶持(ふち)・ 銀三匁を賜わり、矢倉格取扱をもって沖船頭の勤めを命ぜられた。このとき、数え年33歳。
 永力丸賄の源次郎も苗字帯刀を許されて山口浅五郎と名乗り、金五両三人扶持(ふち)を賜わった。 浅五郎も西本庄村の出身である。さらに、安政2年(1855)11月には速鳥丸の建造に従うことになり、 二人扶持を加増され、矢倉格を命ぜられた。このとき、数え年39歳。
 速島丸の完成後、さらに文久元年(1855)には神護丸(じんごまる)を造ることになり、本荘善次郎は 船奉行斎藤八百太夫のもとで造船に従った。山口浅五郎もまた、さらに一人扶持を加増され、大船頭役を 申しつけられて、神護丸の建造にあたった。

船  須藤 利一  法政大学出版局  1968 年
(神護丸の絵馬 姫路市指定文化財 天満神社(恵美須神社)飾磨区)

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