<マラヤと日本軍とゴム>

 20世紀初頭の20年間、マレー半島の繁栄はゴムとスズによってもたらされました。
 1,877年、苗木がイギリスよりシンガポール植物園と、ペラク州のイギリス人 理事官ヒュー・ロウの邸宅に移植したのがマレー半島のゴム農園のはじまりです。
1905年   3万8000エーカー ゴム農園の総面積(マレー)
   6年  10万エーカー
   9年  50万431エーカー
 しかし、スズよりマレーの財政収入にはなりませんでした。と言うのはゴム会社の 資本はイギリス及び、ヨーロッパがほとんどで、イギリスの会社など、推定225%〜300% の配当を株主に配り、さらに所得税も本国政府のふところに入ったからです。 大きなゴム農園の労働者の大部分はインド人で、募集移民でした。
1,910年     2523名
1,926年  14万9414名
   彼らは薄給でタッピングと言う、作業をしました。ゴムの木の樹皮に傷をつけ樹液を 集める作業です。乳白色の樹液はゴムラテックスと呼ばれます。

 順調に伸びていたゴム農園も1929年の世界恐慌で打撃をうけます。また、 後に日本軍侵攻によっても打撃を受けました。
 皆さんよく御存知の第25軍率いる山下奉文司令官が1,941年、マレー半島に 上陸。イギリスの東洋艦隊・極東空軍を撃破して、ついに、マラヤは1,945年9月 12日まで日本軍政下に置かれます。
 ちなみに、降伏文書調印が行われたのが、ゴムと縁のある?『フォード自動車工場』で、 シンガポールのブキティマです。山下・パーシバル両司令官によって例のエピソード 「イエスかノウか」と迫ったお話です。1,941年12月8日の真珠湾攻撃後、 わずか2ヶ月足らずで北ボルネオも日本軍に占領されます。(1,945年10月まで)
 日本軍は『大東亜共栄圏構想』を推進する結果、マレーには混乱と無秩序がやってきました。 さらに、ゴム生産とスズ鉱業は開店休業状態になってしまいました。ゴムの木は切り倒され、 でんぷんを採取する為に、タピオカが植えられました。北ボルネオでもゴムの輸出がストップし、 ゴムの輸出でタイから米を買う事も叶わなくなりました。しかし、日本の敗戦後、再びイギリスは 捲土重来とばかりにゴムに力をいれます。北ボルネオでは1,947年に1万5,000トンも 輸出できるまで復活しました。

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